Last Service//Return

 彼女は元からこうでしたよ。それが何か。
 窓際の椅子に腰掛けたまま眠るティチエルの前で、"オレ"は一人の客人を出迎えた。

 オレが彼女と知り合ったのはいつの事だったか、定かではない。この空間に居る以上、オレも他の者たちも全くの静、流れる時間の中で一つの次元に留まり、全ての物語を見届ける。物語に呼ばれた時だけ、他の者に気づかれぬよう書庫から引き抜かれる。流れる物語とその時間から切り離されたもう一つの空間、簡単に言えばそんな都合のよい場所で、存在自体が消え去らない限りは何が起ころうともさしたる影響はない。書庫に居るオレたちは時間の流れに置き去りにされ、進む事ができない。進めないとは如何なる事情か? 成長のない事。生活がない事。知識を要さない事。本当は意識さえ必要でない事。流れる物語だけが時間を語るも、それは自分の身体に何ら関係がない事。
 自分の思考も曖昧で、ましてやお互いを認識するような真似など出来よう筈もないだが、今日のオレはティチエルを知っていた。

「おかしいですね、あるべきではない幕が上がっているようですよ」
「そうですか。"オレ"はまだ舞台に上がっている筈だけど、何故ここで、こんな滑稽な芝居をしているんだろう? あなたに託したアルレッキーノはお気に召されず舞台を降ろされた?」
「いいえ。"ジョシュア・フォン・アルニム"はアルレッキーノ役で舞台に上がったままです。私もそれを確認しています。ですが、"ジョシュア・フォン・アルニム"は此処にも居ます。あちらのお話の都合上、多忙なスケジュールのようですね。さてさて……」

 客人は背を向けた。動作は非常に緩慢で、軽やかなのはマフラーだけだ。そんな小細工まみれの芝居だから、いつまでも脇役なんだ。

「その"ティチエル・ジュスピアン"はオリジナルを書庫に留めているにも関わらず、またもや舞台に出ているようです」
「そのようだけど。しらばっくれるつもりで居るのかい?」

 ここに居る彼女をどこの舞台に差し込んだのか、もしくはここが何の舞台なのかを問い詰める。一つの役者を二つの舞台へ出すとは大層無茶な話で、オレならそんな文字通り身を割るような巡業はごめんだ。

「一つ、ここは舞台ではありません。バックヤード、誰にも見られていない筈ですよ。
もう一つ、彼女は無い筈の舞台に出演しています。その物語を見守る親切な二つきりの目玉―テシスとベイラス―は存在しません。
最後の一つ、その無い筈の舞台にあなたもお呼びがかかりました。私はそれを知らせに来ただけなのです」

 私はあなたを呼ぶためだけの情報を与えられてここに遣されました、従って本当に何も知らないのです。客人はそう言った。オレが求めたのはその与えられた情報なのだ。自分を良く見せる仕草にもほどがある。

「そうかい。断ったとすれば、どうなる」
「それでも舞台に上げられます」
「その場合は一体"誰"が書庫に残って物語を見るんだい」
「予期せぬ舞台に上げられた結果がほら、彼女です。眠ってはいますが、一応こうして書庫には残っていますよね?」
「承諾したなら、彼女のようにはならないとでも言うのかい」
「準備をすれば大丈夫なんですよ」

 要は、書庫に残っているこの"ティチエル・ジュスピアン"は舞台の準備をせずに引きずり出されたせいで影だけがここに残された。オレは……準備を整えて舞台に上がると言うのなら、書庫でこうした無様な姿を見せずともよくなるらしい。
 そういう事なんだろう。

「その舞台にあの仮面は必要?」
「いいえ」
「準備には嫌な魔法を使うのかい?」
「いいえ」
「オレの役割はもしかして、壊れた舞台の修復?」
「いいえ」

 客人は羊皮紙と羽ペンを鞄から取り出した。どこからともなく机と椅子が現れ、ご丁寧にもインク瓶が机の端に乗っかっている。

「現在の大好評上演中の舞台はそのまま進行していただいて。別で出演する必要がないものなんです。あの舞台での演技をコピーして、適切な編集を施して上演する、パロディ作品なんですよ」

 片腕をひらりと揚げるが、実はその腕、ただの枝に重武装を施しているのではないか? あの手袋の中身は生のないがらんどうかもしれない。客人はその身一つでさえも疑わしさを漂わせている。勿論、その口から垂れる説明だというだけで怪しさを拭えない。
 おまけに散々な話だ。おまけではなく、それが本筋らしいが。

「……演じなくてもどちらでもいい物語はまっぴらごめんだな。一度きりの演技をフィルムで繰り返してラクをする気はないし、そんなふざけた舞台を許す気もない。止める方法はないの?」
「残念ながら、ありません。そしてこれまた残念な事に、今回お願いにあがった物語は非常に下賎な物語であるとあらかじめお伝えしておきましょう」
「ああ、あなたが言うなら何もかもその通りなんだろう。……下賎であっても任された役柄はきちんと演じる。ここで複製を断れば本人が舞台に上がれるというわけなんだな」
「そういう事になりますが、舞台に上がってしまうと書庫には何も残していけませんよ。物語を読み逃して次の舞台は台本なしで出る羽目になるかもしれません」

 机に羊皮紙をセットし、ブロンドの横髪を掻きあげてセンスの悪いゴーグルの頭飾りを調整する。俺はそのもったりした一連を観察した後、ため息をついた。

「本当は有り得ない筈の、複製フィルムでもよい物語か。正規の舞台を考えれば、そんな海賊版を演じに行くのは無駄」
「その通りです、マギカルディ」
「その名で呼ばないでくれ。気味が悪い」
「おや。アルレッキーノを任せてある"ジョシュア"はここには居ないと思いましてね。マギカルディを演じられる多彩な"ジョシュア"なら或いは、と。不快でしたか、これは失礼」
「忌わしい」

 不愉快だった。役者として軽んじられているような気分、プライドを踏みにじられる気分。どうでもよい『下賎』な舞台に次の舞台を振り回されているカタルシス。"ティチエル"はあの物語を大切に思い、どんな理由であれ複製は許さなかったのだろう。
 だが、栄誉の決断を行った彼女は役者ではなく。そして、オレは生粋の役者である。時に苦しくあろうとも、判断を違えない事は大切だ。
 椅子に姿勢を正して座り、たった一行のサインをする。

「このタイトルにあるスチールシャドウってのは、あの影斬りの一振りかい?」
「そうですそうです。主催があの剣を大層お気に召しているそうで」
「趣味が悪いね」


 そうして、アルレッキーノとして物語に放り込まれているオレが別の舞台に複製された。サインをした羊皮紙―書類のようだがオレは最初の一行しか読んでいない―を客人に手渡したところで、この書庫での記憶は途切れている。









April.2009 
スチールシャドウに捧げる詩Presents